朔の里


「あなたの名前は何と言うんです?」
 そう尋ねた直江に妖は首を捻るばかりだ。言葉は通じても、話すことが出来ないため、会話が一方通行になりがちだった。今回も、妖から答えを得ることは出来ないだろう。
「私が付けても?」
 妖はその言葉に是と言うように、直江に擦り寄ってくる。その様子を確かめて、直江はふむと考える。
 名は重要なものだ。言葉は呪。名はそのものを縛ることにもなる。特に力の強いものに名を付けられると言うことは、そのもののこれからを左右することにもなってしまう。
 庭にそびえ立つ大木を見て、直江は考える。
「高耶――高耶はどうです?」
 直江が妖の瞳を見つつそう呼んだ瞬間、妖の体に雷のようなものが走った。
 直江に「高耶」と呼ばれた瞬間、否応なく妖の名は高耶に決まっていたのだ。
「高く、美しく、あの大木のように全てを包み込む懐の広いもの――高耶。いかがですか?」 その言葉に妖は、満足そうに目を細める。そして、直江が「高耶」と言うたび直江に鼻先を擦り付ける様子は、それを喜んでいるようだった。
 「高耶」と呼ぶたびどこにいても直江に走り寄ってくる高耶に、次第に直江も愛着を覚えていった。高耶の、直江を信頼しきった瞳も直江が愛着を抱く要因の一つだった。
「少々出かけてきますが、大人しく待っていて下さいね」
 屋敷の入り口で不安げに見詰める高耶に直江は語りかける。今日は久しぶりに狩りに行くつもりだった。人の形をして獣のような高耶を、人里離れているとはいえ、いくらなんでも屋敷の外に連れ出すことは出来ない。だから、直江は高耶に言い聞かせ、朝早く屋敷を後にした。


 獲物を担いだ直江は足早に屋敷を目指していた。人よけの呪は施してきているが、不測の事態というのは得てして起こるものだ。独り屋敷に残してきた高耶が心配で、一匹の兎を仕留めると、すぐに屋敷に取って返していた。
 屋敷の入り口に立った直江は、自分が出ていったときと変わりない様子に、取りあえず安堵し屋敷に足を踏み入れる。
 途端駆け寄ってきた高耶の様子に、思わず直江にも笑みが浮かぶ。けれど、その後のでき事に直江は驚愕してしまった。
「なぉえ――」
 それは、きちんとした発音ではなかった。しかし、今まで人の言葉を一切話さなかった妖から、直江の名前が零れたのだ。これが驚かずにいられようか。高耶が一切話さなかったのは、決して話したくないのではなく、人の言葉を発することが出来ないのだと解っていた直江にとって、その高耶から発せられた自分の名前は驚愕に値する物だった。
「ぅ……ぬ…ぁぉ――え?」
 不安そうに見上げてくる高耶を、直江は思わず抱きしめていた。
「もう一度、お願いします」
 直江の言葉に高耶は繰り返す。
「なぉ…え?」

Back  Novel   Home  Next