「景虎様」
未だ、執務室で書類の整理をしていると、母からの使いが、夕食の時間になると、やって来た。
「すぐに支度をする。そこで待っていてくれ」
手早く散らかした書類を片付け、隣の部屋にいるはずの直江に声をかける。
「直江、後は頼む」
張り上げた声に気付いた直江が、扉を開け顔を出す。
「わかりました」
気を付けて…
景虎にしか聞こえないよう、小声で耳元に囁く。
高耶もそれに小さく頷くと、使いを促し部屋を後にする。
「景虎、よく来たわね」
相変わらずの無表情で、母親が出迎える。
高耶は、そういえば、オレはこの人のこの表情以外みたことがないな、と頭のどこかで考える。
「お久しぶりです、母上」
昔はその母とそっくりだと言われていた自分。顔の作りのことだけではなく、それが無表情な子供だったことを指していたのは自覚している。
「あなたのために料理人には腕をふるわせたのよ。楽しんでいってね」
感情のこもらない声。
「ありがとうございます」
表面上、礼を言いながらも、高耶の方も久方ぶりの対面に、何の感情も浮かんでこない。白々しい雰囲気の中、会食が始まった。
「どなたでしょうか?」
一方、館の門では、善は急げ、とさっそく訪ねてきた千秋が足止めを受けていた。
「身元が保証されない方を通すわけには行きません」
「千秋修平だ。景虎か直江の奴にいやぁわかる」
何でオレがこんなとこで足止めを…と憮然としながら答える。
「千秋様…ですか?」
明らかに不審を感じている門番に、千秋は苛ついてくる。これはすんなり入れないなと思った千秋は、諸々の手続きを踏むのが面倒になり、手っ取り早く自分の得意技催眠暗示を使うことにする。
「おい…」
千秋は声をかけ、門番の目を覗き込む。
「オレは景虎に呼ばれこの館に来た。重要な客だ。丁重に扱うべき人物だ」
「景虎様に呼ばれこの館に来た。重要な客で、丁重に扱うべき人物…」
「そうだ、と言うことで、景虎のとこへ案内しろ」
「景虎様の元へ…」
催眠状態の門番はしっかりした足取りで、景虎の執務室に案内を始める。門番の制服は館の警備の者たちと同じものだ。その制服を着たものに先導される千秋を、引き留めるものはいない。
「こちらです」
夕刻も過ぎていたからか、執務室までの短くない距離、別段咎められることなく目的地へたどり着く。
「おぅ!ここまででいいぜ」
門番を千秋はとっとと帰す。
「景虎!来てやったぜ!!」
大声を上げながらノブを回す。
扉が開いたところで、隣の部屋の扉から直江がでてきた。
「長秀…景虎様は今留守だぞ」
「直江」
長秀がタイミングよく現れた直江に目を見張る。
「どうした?」
驚いている千秋の様子に、直江は不審を覚える。
「いや…タイミングよく現れたな、と思って」
状況から直江は長秀の驚きの原因に納得する。
「お互いの部屋の音は筒抜けなんだ。この二部屋は」
だから、お前の声が聞こえてきたんだ、と長秀の驚きの原因の種明かしをする。
「ふーん…まぁいい。で?景虎は留守なのか?」
面白くないものをなぜか感じながら、本題を切り出す。
「あぁ、母上殿の夕食に招待されて出ている。景虎様へ用事とは、先ほどの件か?」
「ま、それもある。他にも、な」
言葉を濁す千秋に直江は不審を覚える。
しばらく千秋は逡巡する。
「中の盗聴、盗撮のおそれは?」
顎で部屋の中を指しながら、二人の執務室内の安全性について、言葉短く尋ねる。
「ない」
直江もそれに短く断言する。
「んなら、中はいるぜ」
直江の出てきた扉から、千秋は室内へ足を踏み込む。
直江は千秋の傍若無人な態度に苦い思いを感じながらも何か千秋は重要な情報を握っていることを察し、景虎と自分の部屋の鍵をしっかりと掛ける。
「で?」
窓にも遮光カーテンを引き、外から内部の様子がうかがえないようにし、応接セットの椅子にふんぞり返る千秋に向き直る。
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